札幌平和の福音教会
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義に飢え渇く者は幸いです

マタイの福音書5章1~10節

今朝は「山上の説教」と呼ばれるマタイの福音書5章の冒頭の「8つの幸いな者」の4番目、6節の「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」のみことばに聞きます。

 「山上の説教」のシリーズの最初の説教で、イエスさまがこの大切な説教を、「幸福とは何か」から語り始められたことを確認しました。それは、世界中のすべての人が幸せな一生を過ごしたいと思っているからだと思います。神さまとか信仰とかにまったく興味がない人にとっては、聖書の話や信仰の話などに興味がありません。ところが「幸せになるには」という話には、しっかり耳を傾けるのではないでしょうか。すべての人がこれほどまで真剣に幸福を求めるのは、この地上の人生が一度きりであるからだと思います。それで、悲しいこと、苦しいことに直面すると、「私は不幸な星のもとに生まれてしまった」と嘆くことになるでしょう。私たちの常識は、「幸い、幸福を追い求めることは当然のこと、正しいこと」です。今日の6節にならって言えば、「幸いに飢え渇く者は義である」、幸福を追い求めることは当然のこと、正しことと思い込んでいます。それでは、真剣にそのようにしてきた私たちは幸せになったでしょうか。ここが問題です。
今日の6節のみことばは、実はこの「山上の説教」を解き明かすカギとなるみことばです。イエスさまはここで、私たちが持っている常識を逆転なさいます。「義に飢え渇く者は幸いです」と言われたのです。正しさを心から追い求めると、その結果として幸いが備えられていると言うのです。このことは、必死になって幸福を追い求めても、幸せにはなれませんという警告でもあります。それでは、ここでイエスさまが「義・正しさを追い求める」ということは、「真面目に生きなさい」ということなのでしょうか。

 実は「山上の説教」において、「義」という語は鍵のことばです。ですから、この「義」とは何かをしっかりと理解することが、とても大切です。れから「山上の説教」の全体を、何回かに分けて礼拝で取り上げていくのですが、今日はその導入というか、映画で言えば「予告編」で、大切なさわりの部分を押さえることにします。
この5章の中心テーマは「義とは何か」です。そして6章の中心テーマは「その義をどのように現していくのか」です。そこで最初に5章20節に注目します。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」とイエスさまは言われました。これを聞いて皆さんはどう思われますか。絶望的な気持ちになりませんか。結婚したばかりの奥さんが、夫から、「お前が作る食事が、和食の料理人や、フランス料理のシェフより美味しくなければ、主婦として落第!!」と言われたとしたならどうでしょう。「それはムリムリ!」と言い返したくなります。あなたの義が律法学者やパリサイ人にまさっていなければ、天の御国に入れません。救われませんとイエスさまが言われたのです。凡人にすぎない私たちには「ムリムリ!」と諦めるしかないのでしょうか。
そこで、ルカの福音書18章9~14節を開きます。ここにイエスさまが語られた有名なたとえ話が記されています。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。『二人の人が祈るために宮に上っていった。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫をする者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。』」

 最後に予想外のどんでん返しが語られています。私たちの常識では、このような立派な祈りができ、正しい生活、信仰生活をしっかりと送っているパリサイ人こそが、当然、神さまから義と認められるだろう、そして罪人の代表とも言うべきこの取税人のほうは、神さまからきびしい叱責を受けて、遠ざけられるに違いないと思います。ところが、イエスさまが語られたのはそれとは真逆でした。「自分のような者はとても救われるはずはない」と打ちのめされた気持ちで、宮の片隅で下を向いて祈っていた取税人が、神さまによって義と認められたと、イエスさまは言われます。それは聞いた人たちは、「エッ!なぜ?」と驚きました。このたとえ話でイエスさまが言われたことを、「なるほどその通りです」と言える人は、聖書が語る福音、救いの良き知らせをしっかり受け取っている人です。この取税人はまさに、「山上の説教」にある「心の貧しい者」で、そのことで「悲しむ者」でした。「柔和な者・へりくだる者」として神の御前に出て行かざるをえませんでした。この取税人が「義に飢え渇く者」でありました。自分の内に、ひとかけらの義もないこと、正しさを持ち合わせていないことを知って、「神様、罪人の私をあわれんでください」と叫んだからです。ここからわかることは、聖書が語る「義」とは、自分が正しく真面目だということではありません。「義と認められる」ということは、自分の正しさや真面目さを、神さまにアッピールして、認めてもらうことでもありません。むしろ自分の弱さや汚れと罪と認めて、「主よ、あわれんでください」と叫び願う人に、神さまが与えてくださる「義」です。
使徒パウロも、このことを確認しています。ローマ人への手紙3章24~25節に、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるのです」とあります。聖書が示す「義」は、主イエス・キリストが私たちの罪から救い出すために、十字架で死なれ、よみがえられたことによって、私たちが神さまに義である、正しい者と認められることです。これは神さまから私たちに与えられた恵みです。これが聖書の語る福音、「平和の福音」です。私たちはこのことをしっかりと押さえておく必要があります。

 それでは、これから先ほど申し上げた、マタイの福音書5章と6章の「予告編」に入ります。それによって、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」とはどのようなものかを概観します。
 5章21節以下には、「義とは何か」ということが6つの例を挙げて語られています。律法学者やパリサイ人は、「殺してはならない」という神の戒めをどう受け止めたでしょうか。「自分は実際に人を殺すなど、そんなだいそれた罪を犯したことがない。だから自分は正しい」と言って、自分の正しさを神さまに認めてもらおうとしました。おそらく私たちも同じでしょう。しかし、イエスさまは、22節で「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」と言われました。爆弾発言です。実際の行いだけではなく、私たちが口にすることば、私たちの心の内をも問題にされたのです。確かにことばによっても、人の心は深く傷つきます。「お前など死んでしまえ」と言うこと、心の中で、「お前は、俺が住んでいる世界にいる資格はない。消え失せてしまえ」と思うことは、相手の人格を否定する、人殺しとは同じだと、イエスさまは宣言されました。
 律法学者やパリサイ人は、そして私たちも、このようにイエスさまが言われたことを考えてみたことがありませんでした。もし自分の心の奥岨を探って、そこの罪を見出したなら、また自分が口にしたことばが人を深く傷つけたことに気がついたなら大変なことになります。自分の正しさを神さまに売り込むことができなくなるからです。神さまに義と認めてもらえなくなります。それで、そんなことが起きないように、自分の心を深く探り、静かに内省することを避けるのです。その結果、そのような信仰は表面的のことに終始して、私の人格、私のたましい奥底に届きません。神さまとの関係も表面をかするだけで終わってしまいます。これが、自分の義を神さまに売り込んで、認めてもらおうとする姿勢から生じる結果です。

 それでは、どうしたら、私たちは自分の心の奥底を探り、静かに内省できるのでしょうか。確かに私たちがそうすると、自分の心のみにくさ、罪の汚れに直面させられて、そんな自分に驚かされます。「自分で思っていた以上に、私は罪をかかえている」ことに気づき、こんな自分は救われるわけがないと愕然とするかもしれません。けれどもその時、私たちは静かな御声を聞きます。「そのあなたの罪のために、わたしは十字架で死にました」というイエスさまの御声です。すると、私たちはもっと深く自分の心の奥を深くさぐっていくことができます。そしてさらに、それまでまったく気がつかなかった、隠れていた罪や汚れを見出して戸惑うかもしれません。その時にも、また主の御声を聞きます。「あなたのその罪のためにも、わたしは十字架で死にました。その罪は赦されています」と。神さまに近づけば近づくほど、自分の汚れがわかってきます。これが「きよめの逆説」と言われるものです。このようにして、イエスさまの十字架を信じて、罪の赦しを確信している人は、自分の心と行いを深く内省することができます。しかもそれは、病的なものではありません。健全な形で自分の心の奥底までも、神さまによって深く取り扱われていきます。そこに信仰による成長が起こります。
 また、6章前半では、3つの「善行・義」が取り上げられています。そこでは、施し、祈り、断食というユダヤ人がとても大切にしていた宗教的行いについて語られています。律法学者やパリサイ人は、1節にあるように、「人に見せるために人前で善行を行」っていました。人に見える形で、あるいは見せるように人に施しをして、「あの人は立派だ」とほめてもらおうとしたのです。「神さま、このように私は人からもほめられています。ですから、神さまも私の立派さを認めてください」ということを意図していたのです。ですから、祈るときも、わざわざ目立つ場所まで出て行って、人に聞かれるように、立派な祈りをしました。それを見たり聞いたりした人は、「あの人は信仰深い人だ」と賞賛しました。断食する時も、やつれた顔をして、これほどまでに自分を犠牲にして神さまに仕えていますとアッピールしました。それを見た人は、「あの人は、神さまに大きな犠牲を払っている。本物の信仰者だ。献身者だ」と賞賛しました。律法学者やパリサイ人は、このように人々から賞賛されることを願いました。そうすることによって、自分の義・良い行いを神さまにも認めてもらおうとしたのです。

 ところで、私は江別市にある、教会付属の幼稚園にも関わっています。幼稚園の教室に小さな水槽があって、近の公園の池で採って来たカエルの卵が入っています。やがて孵化してオタマジャクシとなり、大きくなって大人のカエルになると元の公園の池に戻してあげます。このような自然の観察を通して、子供たちの心は成長していきます。ところがいろいろなことを知って学んでいく知識だけでは、園児の成長のためには不十分です。たとえば、園児がすべり台ですべり降りる時やブランコに乗っている時、「先生、見て、見て!!」と叫びます。「ホント、すごいね」と先生から言われたいのです。これは、「社会的承認欲求」と言われるものです。親から認められ、先生からほめられ、友だちから「すごい」と尊敬されることは、子どもたちが健全に成長していくために必要不可欠です。だれからも認めてもらえない、無視されるだけなら、子供はすねてしまい、「自分はいてもいなくてもいい存在にすぎない」と、自分が生きていく価値を認めることができなくなります。このように、園児は自分が親や先生などから愛され認められ、正しく評価されていくことも、心身の成長のために必要なことなのです。

 律法学者やパリサイ人は、自分の「義」=善行を人前で行いました。幼稚園児が「見て、見て、ボクはこんなにすごいんだよ」と叫んでいるのと同じです。しかし、その結果として、彼らの施しや祈り、断食の本来の意味を失い、人に不快な思いをさせて、せっかくの良い行いを台無しにしてしまいました。なぜそんなことが起きたのでしょうか。神さまの温かな眼差しが自分たちに注がれていることを知らなかったからです。ここでも、彼らは自分の正しさを人々に売り込んで、それによって神さまからも認められようと必死になっていたのです。
 けれども、私たちは知っています。私たちの目では見ることのできない神さま、まさに「隠れたところ」におられる神さまは、この私をじっと見ておられます。この私を知っておられ、愛し認めてくださっています。「隠れたとところにおられるあなたの父」と神さまのことが言われています。神さまをこの目で見ることはできない、時には神さまを感じられないかもしれません。けれでも、確かに神さまはこの私を見つめ、認めておられます。母親や先生の眼差しが注がれている前では、子どもたちは「見て、見て」と叫びません。叫ぶ必要もありません。子どもはその場で安心して落ち着いて楽しそうに過ごします。私たちも神さまのまなざしの中で、安心して日々を過ごしていけます。

 義に飢え渇く人の姿について、旧約聖書の詩篇42篇でも歌われています。作者はこのように主を賛美しました。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」と。鹿がカラカラになって、必死で水場を求めている。それはこの鹿の生死に関わることです。そのように、たましもカラカラに干からびてしまったと感じる時、心が押しつぶされて死にそうと思える時、神さまの恵み、救い、喜びというたましいの潤いを必死に求めます。「これがなくては生きていけません」という心からの叫びです。それは「義に飢え渇く者」と重なります。そしてまた、この詩篇の作者は、最後の11節で「神を待ち望め、私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」と告白しています。私たちも、自分の汚れと罪におののき、心が干からびて、神さまに救いを求めた時に、私たちはイエスさまの十字架と復活によって、罪と死の力から救い出されました。まさに「その人たちは満ち足りるからです」と約束された通りに、たしかな救いを得ることができました。私たちは見捨てられませんでした。そして、自分がどんなに良い信仰者なのか、すぐれた人物であるのかなどと、神さまや人々に売り込む必要もなくなりました。その時、私たちの信仰生活の歩みは安定していきます。オドオドすることもありません。この小さな私が、神さまに知っていただいているということは、大きな恵みです。

2022/05/29 礼拝説教